それは、一日の疲れを癒すため、深夜の浴室のドアを開けた瞬間のことでした。白いタイルの壁に、黒い影が張り付いているのが目に入りました。最初は髪の毛の塊かと思ったのですが、その影が、まるで生きているかのように蠢いたのです。息をのみ、恐る恐る近づいてみると、それは紛れもなく、私がこの世で最も苦手とする「ゲジゲジみたいな虫」でした。無数の細長い脚が、胴体から放射状に広がり、長い触角がゆらゆらと揺れています。その異様なフォルムに、私の体は金縛りにあったように動かなくなりました。浴室という逃げ場のない密室で、私は完全にパニックに陥りました。どうする、どうすればいい。殺虫剤は洗面所にある。しかし、ここから動けない。もし、奴が突然こちらに飛んできたら?そんな恐怖で頭がいっぱいになり、ただただ壁の黒い影と睨み合う、長い時間が過ぎていきました。数分が数時間にも感じられた後、私は意を決し、後ずさりしながらそっと浴室のドアを閉め、その日は風呂に入るのを諦めました。翌日、まだ恐怖は残っていましたが、私は昨夜の敵の正体を突き止めるべく、インターネットで「浴室 ゲジゲジみたいな虫」と検索しました。そこで、私は衝撃の事実を知ることになります。奴の正体は「ゲジ」であり、ゴキブリやダニを食べる「益虫」だというのです。家の守り神、とまで書かれている記事もありました。昨夜、あれほど恐怖した対象が、実は味方だったかもしれない。私は、そのギャップにひどく混乱しました。しかし、益虫だと頭で理解できても、あの見た目を受け入れることは、感情がどうしても許してくれませんでした。結局、私はゲジが好む湿気を徹底的に排除することを決意しました。毎日、入浴後には壁と床の水滴を拭き取り、24時間換気扇を回し続ける。彼らにとって居心地の悪い環境を作ることで、家の中での遭遇を避ける。それが、益虫である彼らへの敬意と、私の精神的な平穏を両立させる、唯一の道だと感じたのです。あの日以来、私は浴室の掃除を一日も欠かしたことはありません。あの長い夜は、私に衛生管理の重要性を教えてくれた、忘れられない一夜となったのです。
浴室に現れた謎の虫と私の長い夜